昭和四十五年二月一日 特別奉修委員に対するご教話


 どなたの歌でしたでしょうか。[ホロホロと鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞ思う母かとぞ思う]と、いう歌がございましたですね。本当に、これは仏教のいわゆるお坊さんの歌です、確か。仏教的見方ですよね。いわゆる、その人間は、もう何回ともはなし生まれ変わらなければ、人間にはなれないという説が仏教の説ですから。だから、あそこへおる山鳥も、ひょっとしたら自分の父かもしれない、ひょっとしたら自分の母かもしれない。それが自分達を鳥の姿ではあるけれども、こうやって見守っておってくれておるという意味の歌らしいですね。
 『今、あの御祈念前に田中さんが、今朝からお夢を頂かれたというのが、久冨くにかさんと御自分とそれから、あちらの子供さんと三人で、みかんを一生懸命詰めておるところを頂かれた。いわゆる、みかんの箱詰めですよ。』
 これは、みかんのお知らせというのは、合楽の信心というこでしょう。みかんのいわゆる、あれをこう二つに切りますと中が菊の花のようになりましょ。いわゆる菊の花の信心。私どもの心を二つにこう割って中が菊の花でなからなければ、合楽の信心に悖っているという訳なんです。
 自分達の心を開いてみて、菊ということは喜び、信心の喜びというものが、もしないならば、あなたは合楽に参りよるばってん、合楽に参った値打ちはなかよと、言われると同じこと【  】そういう意味で、みかんのお知らせを頂きます。
 ですから、いわゆる、まあ合楽的喜びとでも申しましょうかね。そういう喜びの、しかもそれ〔を〕箱に詰めておるというんですから、この喜びを人にも送ってあげたり、あげ〔ら〕れるようなおかげを、しっかりまあ頂いておるところじゃないでしょうかね。
 『ところが、その、ずっと今度は、少し場面が変わってから、やっぱり久冨さん、田中さん、子供さん〔と〕こう行きよったところが、小鳥が三《羽》楽しそうに飛んでおるところを。まあ、枝に止まっておる。それを子供さんが一《羽》とらえたち。〔そ〕したらお母さんが「せっかく親子三人で楽しゅう暮らしておるのを、あんたが取ると可哀相だから放生してやんなさい」と、言いよるお知らせだったとか。』
 私、そのことをね、「なら、田中さん、御祈念がすんでからこの御理解頂きましょうね」と、言うて御祈念でそのことをすぐ心の中に思うたらね、最近頂いておりますように、その、いわゆる和賀心時代なんですよね。いわゆる、月の世界にも人間が行けれるように迄なった時代という今、ようにですね、見よって御覧なさい、絶対私どもがね、このままね、あの世に行けれる時代が来るですよ。魂の世界に。
 これは、おそらくひょっとすると月の世界に行くよりかみやすいかもしれません。それは、いっちょ間違ったら、もう行きっなしたい、そんかわり。(笑)けれどもね、行って帰って来れる時期が来るですよ。そのことを頂くとですよ。
 もう、最近、私が言うておことは、もう大変なことですからね、皆んなが本気で<頂かな>駄目なんですよ。いわゆる、和賀心時代を自分の心に、まず自分の家庭に本気で頂かなければ。
 ですからね、私どもがですよね、あの世に一遍行って帰られる、あの世旅行がでけるようになるって必ず。何故って、それは、もうある意味でですね、魂の世界との交流がですね、ある一部では出来ておる、科学的にです。出来ておるくらいですから、私どもが行けれる時代が来るて、必ず。
 これは、しかも、それは何千年か何万年先か、それは分かりませんよ。それは月の世界に私どもが行けれる、地球上に人類が出来て、それから何千年、何億年経ったか知らんけれども、その間は、やはりお月様はまんまんしゃまじゃたつが、まんまんしゃまの世界に行けれるようになったじゃない。というようにです、いつの時代か必ずそういう時代が来るて。
 だから行ってみてです、なる程、親先生が言いよざったごと、あの世に行く為には、徳を持って行かなければ、行けるだんのことじゃなかと。とても、あの世で徳を持って行かないで行っておる人達が、この世ではいうならば、金に物に浸っておったような人達がです、あの世で、いわば魂の世界で、あのような難儀をしておるごとあるなら、魂ば清めとかなければ、あちらには行けんぞというよなことが見て帰って来られる時代が来るって必ず。
 例えば、そのアポロの計画で月の世界に行って、月の世界のを写真にまで取って来たようにですね、私どもが今度行ってですね、全部か全部じゃなくて行ける人が行ってですよ、そして、あちらの世界を、いわば写真に写して来たり連絡を取って来たり、取って来る時代が必ず来るて。
 そん時にですよ、いわば実証される時代が来る時、だからそれ前に私どもはね、頂いておこうというのですよ。間違いない、月の世界に行けれるように、いわばあの世に行けれる時代が必ず来る。これはもう、私だけのことですけん、皆さんに分からんから。
 例えば、小山先生がです、亡くなられてから「本当に親先生がおっしゃておった通りでした」と言うて、もう本当にこの世のことを述懐して、御霊様が私に話されたことがあるです。先生、あげん言いなさるばってん、ち言うたふうな考え方じゃった人がですよ。
 ですから、そういう例えば、私だけにしか分からないといったようなじゃなくて、誰んでも、その分かれるような、あの世行きの、いわば切符さえ手に入れたらね、行けれるようなね、時代が必ず来る。
 それにはです、例えば、久冨くにかさん達が、一生懸命、今みかん詰めをなさっておられるようにですよ、ひとつ和賀心時代に備えてね、私は蓄えをしとかないけんのじゃないかと、こう思うのですよ。
 仏教的に言うと、本当に、例えば牛に生まれ変わったり、馬に生まれ変わったり、または鳥やら猫やらに生まれ変わるとさえ言われる。まあ、それは、どうとはとても分かりませんけれどもですたいね。けれどもね、そういうような私どもは、その観念、根本的な観念的なことがです、実際に感じられるようになって来ると、例えば、私が嫌いでたまらなかった猫なんかでも、非常に、この頃手では扱おうごとなかったけん、もう邪魔になるけんポンと足で蹴ったりしよったばってんね、ひょっとしてこれが自分の弟かもしれんと思うたら、とっても蹴られんですよ。
 ここに、縁があって来とるところをみると、ひょっとすると私の亡くなった、いわば弟かもしれん、おじいかもしれん、ばばかもしれん(笑)と思うたらね。そういうところにね、私は、神心が段々強うなっていく稽古、それがそのまま、とりもなおさず和賀心の中にいつも喜びが頂けておるということなんです。
 これを、二つに割ってみて、本当にもうですね、和賀心を求める心が心の底にあればいいです。それはね、表面には、腹の立つ心かもしれません。あさましい心かもしれません。それはね、人間、凡夫でございますから、しかたないけど、その底には、その底にはね、和賀心というものがあって和賀心で、それが、いわば、第三者が、あれを見るようにゆとりのある心で腹を立てておるとゆったようなね状態が実際出来なければ、いけんのじゃないかと。
 私は、これは、なる程ね、月の世界に行けれる。あの世に行けれる時代が必ず来る。それは、百年二百年とても〔の〕ことじゃないから、それは何千年先か分かりませんよ。そん時に、実証してきたけんで、実証してみせなければ、せん。そんな時代には、こちらは、もうしまえてしもうてから、あの世で一生懸命苦労せんなならん。(笑)
 けど、それを、ここに本当にです、そのことを私が言い明かしておる時にです、お互いが早くその気になってです、ひとつ和賀心時代を自分の心の中に、いよいよ確実なものにですね、〔そ〕して、しかも、それを人にも、そうだと伝えられる、送ってあげられる準備を本気でしとかなきゃならんのじゃないだろうかと、田中さんが今朝から頂かれた、私は、お夢というのは、そんなことだった思うのですよ。
どうぞ。